『鎌倉殿の13人』の第7話では、上総広常(かずさ ひろつね)を味方につけるための交渉が描かれた。関東屈指の大豪族である広常の臣従によって、源頼朝は大庭景親に対して俄然優位に立ったから、合戦シーンはないものの序盤の山場と言える。前回説明したように、この時、北条義時は房総半島ではなく甲斐国にいた可能性すらあるので、広常を説得する場面はフィクションであるが、ドラマとしては見応えがあった。歴史学の観点から第7話のポイントを解説する。
素早かった上総広常の挙兵
上総広常の動向について、『鎌倉殿の13人』は鎌倉幕府の準公式歴史書『吾妻鏡』に準拠して描いている。同書によれば、広常は源頼朝の参陣要請に対して最初は曖昧な態度をとり、ようやく重い腰を上げて隅田川(現在の流路とは異なる、下総国と武蔵国の境だった)のほとりまで進軍していた頼朝の元に馳せ参じたのは、治承4年(1180)9月19日のことである。
けれども、京都の貴族である九条兼実(くじょう かねざね)の日記『玉葉』の治承四年九月十一日条には、上総広常が源頼朝に属したと記されている。当時の関東から京都への情報伝達速度を考慮すると、広常は8月終わりころには反平家の旗を掲げて挙兵していたと考えられる(元木泰雄『治承・寿永の内乱と平氏』吉川弘文館、2013年)。
加えて延慶本『平家物語』によれば、源頼朝は石橋山合戦以前、既に上総広常・千葉常胤(ちば つねたね)から参陣の約束を取りつけている。広常がなかなか旗幟(きし)を鮮明にしなかったという『吾妻鏡』の記述は疑わしい。
『吾妻鏡』を読む限り、源頼朝軍は平穏無事に上総国から下総国へ北上しているが、当時、上総を治めていたのは、平家の侍大将である伊藤忠清だった。忠清は京都にいたが、忠清の一族・郎党が上総目代として現地に赴任していたはずで、この目代が頼朝軍の通行を妨害しなかったのは不審である。
野口実氏の研究によれば、当時の上総目代は伊藤一族の平重国(養父の姓である「平」を名乗った)であり、治承4年9月に源氏方に討たれたという(『増補改訂 中世東国武士団の研究』戎光祥出版、2020年)。源頼朝直属軍が重国を討ち取ったのであれば、『吾妻鏡』に記述があるだろうから、広常が討ったと考えられる(元木前掲書)。広常が事前に上総の平家方勢力を撃破していたからこそ、頼朝軍は干戈(かんか)を交えることなく上総国を通過できたのである。
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