にぎやかに花見を楽しむ慣習がいつ根付いたのか知らないが、平安末期の歌人西行が詠んでいる。山中に隠せいしても春に多くの人が訪れて騒々しいのは桜の罪だと。コロナ禍で消えた花見のにぎわいが、仙台では3年ぶりに復活した。
満開となった日、青葉区の西公園を散策した。かなり混み合い、どこも密な状態。マスクを外し、大声ではしゃぐ人も少なくない。以前ならようやく春が来たと心浮かれたはずだが、思わずたじろいで距離を取る。令和の春に罪深いのは、桜ではない。新型コロナという疫病だ。
よく観察すると、コロナ前との違いに気付く。同じにぎわいでも、職場から連れ立ったような団体はほとんどいない。何時間も前から場所取りをして、買い出しに行かされる若手の姿も見なかった。
にぎわいの主役は仲間内や家族連れに変わった。花より酒に酔い、やたら偉ぶる無粋な人はいない。誰にも気兼ねすることなく花見を楽しんでいる。こちらも少しだけマスクを下げてみた。来春こそはマスクを外し、浮かれてみようか。その際はお許しください、西行さん。
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