1945年8月15日まで全国で続いた米爆撃機B29部隊の空襲。終戦が遅れれば、さらに少なくとも22都市を大規模攻撃する計画があったことが米軍資料研究者の調査で分かった。「いつ空襲されてもおかしくない状態」だった街には、浦和、長野、金沢など大空襲と縁が薄いと思われてきた所も多い。多くの人命が失われ、町並みも一変した都市と、運命を分けたものは何だったのか。(山田祐一郎、安藤恭子)
◆「爆撃中心点」がここに設定されていた
4日昼、浦和駅西口から徒歩で約5分のさいたま市浦和区仲町1丁目。「こちら特報部」が国道463号と仲町平和通りの丁字路を訪れると、ランチタイムで行き交う人で混雑していた。歩道の石碑には「中山道浦和宿」の文字。目の前のロイヤルパインズホテル浦和には観光客らしい姿もあるが、商店街には古くからの店も多い。
ここは、1945年7月30日に米軍が作成したフラグ・プラン(個別戦闘計画書)に座標が記された「爆撃中心点」。B29部隊が
「東京で空襲を経験したけど、浦和でも計画されていたなんて聞いたことがないね」。通りかかった男性(82)=さいたま市大宮区=に教えると、目を丸くした。
すぐ脇の酒店「和泉屋」の店主高須啓次さん(64)によると、同ホテルはかつて旧浦和市役所があった場所で、付近は当時も繁華街。「県庁裏に爆弾が落ちたと聞いたことがあるくらい。ここも狙われていたとは」と驚きを隠せない。「高射砲陣地が近くにあったが、軍の工場などがあったとは聞かない。当時は今より道も狭く、木造の家屋や店舗が空襲を受ければかなりの被害が出たのでは」
◆浦和に空襲3回…未遂の「大空襲」もし行われていたら
一夜で10万人が犠牲になった東京大空襲などと比べ、浦和では空襲の被害を受けた認識が薄いが、全く空襲がなかったわけではない。前出の丁字路から西に約500メートルの自宅で当時から暮らす前田利幸さん(86)は45年4月14日未明、「ものすごい音と、届きそうなくらいの低空飛行のB29から落とされた爆弾がしばらくすると火柱を上げ、周囲が煙に包まれた」と語る。
旧浦和市史によると、45年4月12、14日と5月25日に空襲があり、計21人が死亡。4月14日未明は、東京を空襲した爆撃機1機が浦和に飛来し、県庁周辺に焼夷弾などを投下したとされ、民家130戸が焼け、5人が死亡した。
ただ、浦和のフラグ・プランを発見した「空襲・戦災を記録する会」の工藤洋三事務局長(73)によると、4月14日未明の空襲は浦和を目標としたものではなかった。陸軍施設の「東京造兵
これに対し、7月のフラグ・プランが実行された場合、B29約100機による大空襲となる予定だった。工藤さんは航路図などの資料がそろっていて「いつ攻撃が行われてもおかしくなかった」とみており、はるかに上回る死傷者が出ていた可能性がある。
◆終戦直前42都市の「フラグ・プラン」…20都市で実行
8月15日の終戦で「空襲を免れた都市」は浦和だけではない。米軍資料を調査してきた工藤さんによると、終戦間際の45年7〜8月に発行されたものに限っても、延べ42都市のフラグ・プランが見つかっている。
このうち、東京・立川、埼玉・川口、金沢など22都市は、フラグ・プランに基づく空襲を受けなかった。一方、東京・八王子、水戸、前橋、富山など20都市では空襲が実行された。明暗が分かれたのはなぜか。
◆人口多い都市から狙われ、さらに現地の米軍部隊の判断か
米軍は入手した40年の国勢調査に基づき、日本の180都市を市街地空襲の目標と定めた。大阪と神戸で大空襲があった45年6月の時点で大都市は壊滅的な被害を受けていたが、市街地空襲の効果を確信した米軍はその後も中小都市に対し、人口の多い所から空襲を続けた。
フラグ・プランの流れははっきりしないが、工藤さんは、ワシントンにあった米陸軍航空軍の情報部門で作成され、B29の基地があったマリアナ諸島の部隊へと伝わったとみる。空襲は、プラン発行後、おおむね数日から2、3週間で行われていた。
「機数が少ないテニアン島の部隊には小さな都市を充て、異なる部隊が混乱しないように、近接の都市への同時攻撃は避けるなどしている。最終的には現地の判断だったようだ」
◆フィナーレ爆撃の次の計画も…「戦争を始めてはいけなかった」
フラグ・プランは、45年8月14〜15日の「フィナーレ(幕切れ)爆撃」と呼ばれる空襲を受けた埼玉・熊谷のものも見つかった。ポツダム宣言受諾を促すために1000機以上が出撃した最後の総攻撃で、全国28カ所で2400人以上が犠牲となった。
フィナーレ爆撃を受けた地の一つに、秋田・土崎がある。旧日本石油秋田製油所が標的で、14日夜から4時間にわたり130機余りが1万2047発の爆弾を投下。市民、兵士合わせ250人以上の死者を出した。製油所はほぼ壊滅し、火は1週間消えなかったという。
「日本最後の空襲」として語り継いできた「土崎港被爆市民会議」の小野哲事務局長(70)は「記録する会」が昨夏発行した機関誌「空襲通信」で、秋田・土崎の両市街地に別の空襲の計画があったことを知って、衝撃を受けた。
フラグ・プランの日付は45年8月10日。「市街地で空襲が起きていたら、死者は250人じゃ済まない。大変なことだ」。市民会議は昨年からパネル展や講話で「終戦により秋田と土崎の街は空襲を免れた!」と題して、幻に終わった計画を紹介している。
小野さんの父銀悦さん(故人)は、同製油所で養成工として働き、18歳で空襲に遭った。田んぼのあぜ道をたどり、10キロ近く離れた実家に逃げ帰ったことで、命拾いしたという。
小野さんは言う。「戦争が1日早く終わっていれば土崎空襲はなかった、と思うが、いったん始まってしまった戦争を終わらせるのは難しく、始めてはいけなかった。そのことを伝える大切な歴史として発信していきたい」
◆デスクメモ
工藤さんによると、土崎の製油所を爆撃したのは、新型レーダー試験のために石油基地攻撃に特化した航空団。約2000発が工業地域に落ちる成果を上げたが、残りは敷地外に落ちた。現地には傷ついた墓石や首を失った地蔵が残る。誤爆による民間の犠牲はほとんど顧みられなかった。(本)
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