指導者として日台韓の8球団渡り歩いた立石充男氏
選手育成でヤクルト・野村克也監督に驚かれ、中日・星野仙一監督には感謝された。コーチ業のスペシャリスト・立石充男氏にはそんな“逸話”がある。南海の内野手としての現役生活を終え、指導者になってからはダイエー、中日、台湾・和信、近鉄、阪神、台湾・統一、韓国・ハンファ、楽天、そして再び中日と渡り歩いた。教えた選手は数え切れないが、明大からプロ入りした、内野手のひとりは特に印象深いという。
立石氏は熱血コーチとしても有名だ。特に若かりし頃、中日コーチ時代には、あの闘将・星野仙一監督にも言い返した“実績”があるし、ダイエーコーチ時代には田淵幸一監督と言い合ったこともある。「納得いかなかったら、わかりましたぁ! って言って、ドアを思いっきりバッターンって。その部分がへこんでいました。すかさずダイエーのマネジャーが何月何日って書いてましたね。まぁ笑い話ですけど」とサラリと話したが、周囲は当然、笑ってられなかったはずだ。
それでも年上からは一目置かれ、年下からは慕われた。指導者として、多くの選手と接し、それぞれのタイプを見極めて教え方を工夫。自身が思いつく最善の方法で取り組んだ。1993年のドラフト2位で中日に入団した鳥越裕介内野手に関しては、その年のオフにダイエーを戦力外となり、中日にテスト入団した市原圭内野手とのセット指導が功を奏したという。
当時、立石氏は中日2軍守備コーチ。「鳥越は守備力がよくなかった。最初は1軍だったけど、1軍のコーチからキャンプが終わる時に電話がかかってきて、鳥越は一からやらないと難しいというような話になったんです」。そこで鳥越と市原を呼び出し「明日から今まで教わったことを白紙にして、一からやれるか。ただし半端じゃないぞ、練習するぞ」と伝えた。2人は「お願いします」。そこから始まった。実際、すさまじい数のノックを打ったという。
鳥越は背が高い(189センチ)ショート。どうしたらこの選手がよくなるかを考えた末、島谷金二2軍監督に「サードで使ってください」と頼んだ。だが、エラーは減らなかった。ある時、ハーフフライを落とした。「すみません」という鳥越を見て立石氏は市原を呼んで「一言いってあげろ」と指示した。実は事前に打ち合わせをしていた。「鳥越に『それだけ試合で使ってもらっていいじゃないですか、僕はベンチにいて、そんなすごい経験はできませんよ』って言ってくれ」と……。
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